祖霊信仰、ニライカナイ、王国を経た血塗られる美しい海、ミサイルを押し付けられる蒼い海。彼岸と此岸のあいだより。

久々のBlog更新。2015年5月9日〜11日まで沖縄へ行ってきた。きっかけは藤原新也氏のウェブマガジン内における辺野古見学兼OFF会。石垣への乗り換えを除いてまともに沖縄の地を踏むのは10年以上前の高校の修学旅行時以来のこと。OFF会はおまけにしても金魚の糞になるのは真っ平御免。自身における必然性を高めるため、出発まで一月未満だったが出来うる限りの深度を目指したリサーチをした。リサーチを進めれば進めるほど驚きと危機感の連続だった。元々持っていた危機感では甘いくらいに歴史的現在年としての今は逼迫しているうえに、時代の速度が鬼畜的に速く問題の根は予想を覆すほどに深く捻れている。それは本来市民を守るためにあるはずの機動隊や海保が抗議中市民を強制暴力排除したり、右翼がクリーン活動(笑)として米軍フェンスに括り付けられたメッセージを一掃したり米軍キャンプ内において仲良し懇親会をしていたりするところに顕在化していると言えるだろう。
本を読むと、結局は”政治家の意識怠慢”の一言に集約される。物事は常にシンプルなものだ。自身の行いや自分自身さえも崇高なものに仕立て上げてしまい自意識過剰の渦の中に呑み込まれていく。しかし本人は気がつかない。崇高すぎて自身を省みることなどできないから。しかしこれで終わってしまってはBlogの意味が無いため実地調査を含めたリサーチ内容の整理をする。以下、かなりの長文になる。

5月9日(土)7:55。羽田からJALで那覇へ向かう。当初は初日に首里城見学をするつもりであったが、機内で限定された範囲ではあるがインターネットが使えたため沖縄の観光についての情報を端から読んでいく。はじめに目に付いたのはやはり沖縄料理のお店と伝統文化や工芸美術などに触れられる牧志あたりのスポット。ページをめくっていくと久高島に惹きつけられた。文言には、「琉球の創世神アマミキヨが最初に天から降りてきて、五穀をもたらし国造りを始めた島として、古くから崇敬を集めてきた。島内には、琉球開びゃくの七御嶽のひとつクボー御嶽[うたき]をはじめ、カベール御嶽、島の2大祭祀場となっている外間殿[フカマドゥン]や久高御殿庭[ウドゥンミャー]など、多くの聖域が点在し「神の島」ともいわれる。周囲約8kmと小さい島なので、レンタサイクルで回るのが便利。」とある。これはしばしば情報や本や人などに対して発揮されることなのだけれど、明らかにかつ無意識的に有用で重要なものや人に惹きつけられ運ばれることがある。今回の旅も然り。感覚がそうだということには逆らってはいけない。考える前に動いた方がおもしろい時があるのだ。とにかく行くことは即決し、タイムテーブル上で行けることを確認して行き方をザックリと頭に入れる。10時30分那覇到着。飛行機に接続された通路に出た途端から暑さの質が違うことを感じる。湿気が空気に厚みを持たせるようで、なんとはなしに重いのだ。ロビーから外へでるとそれはすぐさま確信に変わる。東京からすればもの凄い湿気を肌で感じとる

すでに暑い南国の太陽が激しく迎い入れてくれている。心が高揚せずにはいられない。私は南国の太陽と風がこのうえなく好きなのだ。空港と首里間を約30分で直結するモノレール「ゆいレール」に乗って旭橋へ。1日フリーパスが700円とお得なのでそれを購入した。途中、小禄で気の迷いが生じ下車。改札口へと降りる階段で思い直し再びホームへ。ホテルに荷物を置いて身軽にしようと思ったが、何が必要になるか分からないので思い直したのだ。しかし、このちょっとした気の迷いが予定を狂わせ、バス待ちに1時間フェリー待ちに1時間となんとも南国らしい空白の時間を生み出したのだ。プラプラしてみても大してなにもない。しかし取っ掛かりがない空白にこそ、一番大事で感じ取りにくいものがそこにあるのだと私は考える。
スムーズに行けば旭橋駅から徒歩3分の那覇バスターミナル→38番系統の路線バス志喜屋線で1時間、バス停:安座真サンサンビーチ下車、徒歩5分の安座真港から久高海運高速船に乗り換え15分、またはフェリーくだかで20分、徳仁港下船。という流れで空港から約2時間みれば到着できるはずだ。しかし島に到着したのは14時半。一瞬の気の迷いは行程にかかる時間を倍にしたが、配布された久高島の地図や御嶽についての記載を読み込んだり琉球新報に目を通したりただ静かに海を眺め考える時間を私に与えてくれた。結果は常にAll lightだ。かといって時間があるわけではない。帰りのフェリーの最終は17時なのだ。港から一番近いカフェ兼レンタサイクル屋さんで自転車を借りすぐさま走り出す。地図はあまり見ない。これは良くも悪くも未開を求める私の習性で舗装があまりされていない方ばかりに自転車を走らせる。5分で行き詰まり公民館のようなところの広場を横切って民家のある道をカベール岬目指して練り進む。散策中気がつかずにおそらく御殿庭(うどぅんみゃー)や大里家(うぷらとぅ)外間殿(ふかまどぅん)を何度か通り過ぎていた。なんだろうという気持ちは確かにあり、その風景はきちんと見覚えていたことに帰宅後気がついた。それぞれに立ち止まり拝む理由がある聖域であった。アニミズム的な信仰は権力の誇示と関係するよ
うな大仰な鳥居や狛犬や金ぴかりんの間などとは一切無縁のため、時間をかけゆっくりと、そっと訪ねるべきであった。なるべく全ての場を体験しなければという焦りがなかったわけではないので、またきちんと下準備をしたのちに再訪すべきであろうと思う。沖縄はとくに祭祀や行事が多く、地域ごとの種類も多い。一つ一つの祭祀に関連性はあれど固有の由来と儀式があるもので、対照的に何かにつけて差異を嫌がる国家という単位の誤りに思いを馳せる。日本はまだしも地理的に一つの島であるため内乱などの気配は生じないが、陸続きである中国やロシア、中東、アフリカなど至る所で国家という単位の齟齬が内乱や暴動を引き起こし続け、いつまでたっても世界から大量殺戮兵器は無くならない。兵器市場は商売繁盛。麻薬カルテルも商売繁盛。裏から表、表から裏へ、所々で滞留し格差を生み出しながら鈍い流れを造っているのが先進国における資本主義経済システムの現在の姿だ。開かれた新興市場は配管もできたばかりで通りも良いが、やがては老朽化した先進国のように汚物が溜まり社会は汚濁と腐臭にまみれ取り返しのつかないところまでいってしまう。戦争や領土や緊張関係や社会制度や憲法は、理念も道徳も無くした人間もどきの少数派によって全てマネーゲームの駒になる。存在しないMoneyの影で文化や記憶はゴミほどの認識もされずに消えていく。Moneyの流動性は破壊からしか生まれない。積み上げられた愛しい記憶を破壊し新たに建設を進めてまた破壊し、乱暴な新陳代謝を起こすことで健全な経済の流動性が確保されると本気で信じている少数派は、あまりに強大かつ絶大な力をすでに保持している。そんな魑魅魍魎たちを前にして世界を救うなどということはおろか、変えるということさえもはや絶対的に不可能だ。
来たるべきものに備え、もっぱら個を鍛えるという他になんの手立てもないというのが現在の大観である。そのために私は拘束性のない緩やかな繋がりを造るため、私自身が学び行動し語らう活動”Think about the future in past – for the future children -“を始めた。表題が英語なのは、この活動はその土地ごとに世界中で必要とされる活動であると考えるからだ。今回の旅も藤原新也という写真家を中心に据えた別の連帯への参加がきっかけではあれど、自身の行動基軸としてはその一環である。場の深度に触れ人間と関わり、求める者には語り伝える。流れそのものに埋没するのだ。表現におけるちっぽけな固有性も自己顕示欲もしばらくは隅に追いやりたい。それが私から見た時代の必然性なのだから。

久高島に話を戻そう。かつて琉球国王も訪れていた神聖な浜(いしき浜)、二千年も前の貝塚(しまーし)、琉球の祖神アマミキヨが降り立ち竜宮神が鎮まる島の北端(はびゃーん)でも、じんわりと胸に染み入るような、ひっそりとしていて畏れというよりは無性に愛しい控えめな神域、お祀りする場であった。しかし島の神女になる儀式であるイザイホーは現在ではおこなわれていないという。そのために半分自然に回帰した残り香のような佇まいであったのかもしれない。愛おしさを感じたのはもしかするとその場の記憶に対してであったか。
自転車を返却し一汗かいたあとのオリオンビール。一人でいても喉を潤し五臓六腑に染みわたる際の「くぅ〜…」は止められない。時間がないためイラブー(海蛇)のスープまで届かなかったことも残念ではあるが、かつては琉球王朝の神事の要所であった久高島で最高権力者の位置にあった久高祝女(ノロ)と外間祝女、久高根人(ニンチュ)の三アムトゥだけに許されていた神聖な料理で、海蛇の燻製の際に用いる火種となる植物の配合や作業の詳細はすべて口伝えで継承されてきたというから、興味本位の定食感覚で口にするのも畏れ多いという意味ではそれもそれであるべきようであったのかもしれない。
海はただただ美しく風は凪いでいた。暴力的なものはそこでは一切感じられなかった。鉄は錆び長い時間をかけて母なるマントルに還ろうとしていた。

島を後にする。那覇行きのバスまでまた一時間待ち。待っている間、近くの岩場を観察。潮の引いた岩場では取り残された魚たちが泳いでいた。始めて自然のシャコも見た。青くて綺麗な魚がたくさんいた。小さな自然の海の下の世界だった。かといって大して綺麗な岩場ではない。岩にはヘドロのようなものがこびりついてヌルヌルとしていたため、足元には十分に気をつけなければならなかった。それでも、こんなところにも生命が溢れているのが沖縄の豊かさであると私はしみじみ感じたのだ。というのも、前日に私はまた急に思い立ち家から自転車で30分ほどの距離にある入間川へ行っていた。10年以上ぶりに行った入間川はヘドロにまみれ汚水の匂いがした。かつて遊んだ川はまったく様変わりしてテトラポットのあいだには小魚もおたまじゃくしも泥鰌も川エビもいなかった。川床には砂利の代わりにヘドロが堆積し、まるで堆積した時代の負を象徴するようにゆらゆらと漂っていた。にもかかわらず釣り人はそこそこいて何かを釣っているようだった。おそらく川の本流の深度のあるあたりには環境に強いバス系の魚がいるのだろう。岸辺の草むらではなにかしらの病におかされた瀕死の狸が一匹、意識が混濁しているのか太陽を向いて揺れていた。所々体の毛も抜け落ち骨と皮ばかりに痩せ細りあばらが浮いていた。自然にしておくべきだと理解しているが命を見過ごすことに躊躇いがないわけがない。やるせなさに駆られ黙々と水切りをした。日も暮れかかり帰る間際、もう一度件の狸を見に行った。死んでいるかもしれない。死骸は見たくないな。そう思いながら恐る恐る草むらをのぞくと狸がいない。いや、草むらの中に眠っている。きちんと寝床に帰っているのだ。この狸はまぎれもなく明日のために生きている。動けず太陽に向かって座り続けることしかできない、いや、もはや明日はその体力すらないかもしれない。それでもそこでただ地面に伏せて何者かに狩られるだけの末期を選択することはないのだ。もしこの狸を発見した時に勝手な死の予想を押し付けて短絡的で一方的な動物愛護精神を持ち込み動物病院にでも駆け込んでいたら、私はこの瀕死の狸という一つの生命の輝きを冒涜することになっていただろう。それはどこか、日米安保を沖縄問題にすり替え、福島の人たちを一括りに被災者として扱う乱暴さと繋がるものだ。

20時頃、宿をとっている小禄に着く。駅前にはどでかいIONが構えている。翌日知ったが沖縄にはIONが多いらしい。確かにそうだ。その他に自身で気がついたのは楽天edyの普及率だ。こういった場所では巨大資本の独占が目立つため、入札の際などの暗く獰猛な空気を感じやすい。道路を渡ったところにある百均でビーチサンダルを購入し、来た道を戻りながらIONを横に見て宿へ入る。宿の構えは大きく黄色く塗られた外観は南国の植栽に彩られ南国らしさを演出していた。中身は可もなく不可もないビジネスホテル。全室Wi-Fi完備で朝食付きであることが単独旅行には有難い。さっそくシャワーを浴びて夕飯をとる場所検索する。フロントで聞くと小禄にはIONのフードコート以外では何もないそうだ。これも翌日知ったことだが、巨大資本は賃料が高く地元の店は入れない。結果、どこにでもあるチェーン店が入り採算がとれなければ撤退する。どこかのIONでは、はなまるうどん1軒だけのフードコートになっているという。本当の地域振興とはなにか。空いた土地があれば即時購入・転売・商業施設かマンションの建築等で利益につなげなければ気が済まない、今の企業や国家の体質が十分な問題提起になっている。
いくつかの目星をつけて2軒まで絞り込む。安里駅から徒歩1分にある、うりずん。ここは知る人ぞ知る沖縄料理屋で、県内全ての泡盛が置いてあるという。もうひとつは美栄橋駅から徒歩3分の、まーちぬ屋だ。まずはうりずんへ行ったが土曜の夜ということもあってか1人でさえも入れなかった。すでに21時をまわっているのですぐに引き返し、まーちぬ屋へ。運よくカウンターが空いていた。通りに面しているも中が見えず隠れ家のような佇まいで、人によっては入りにくいかもしれない。しかし夫婦らしき店主が明るく優しい。奥でお母さんらしき方が料理を作っていた。まずはオリオンビール。昼間に久高島で生を呑んでいたため瓶にしたが、私には瓶の方が美味しく感じられた。まずは初体験のどぅる天と定番の島らっきょうを頼む。田芋という里芋に似た沖縄の芋に豚肉、かまぼこ、しいたけを混ぜて練り合わせ揚げたもので、前述のうりずんが発祥とのこと。しっとりモチモチしていて出汁の効いた味がする。箸でちぎりながら食べることができるのでお酒のつまみに丁度良い。島らっきょうはツンとした辛味はなく殆どが茎だった。茎だけでもこれだけ美味しいのならと、自宅で漬ける際に茎を捨ててしまったことが悔やまれた。
次もまた定番の海ぶどうと島豆腐。醤油ポン酢にサラダ油を加えたような独特のタレにつけて食べる。ぷちぷちとした食感とタレの味が絶妙に合う。付け合わせのレタスと食べれば海ぶどうサラダだ。何もつけないで食べると仄かに海の香りがした。昼間みた久高島の海ぶどう養殖場を思い出し、久高島の海ぶどうかもしれないなと思ってみたりした。島豆腐は味、食感共にしっかりしていて豆腐というよりは独立した1つの料理のようだった。何もつけず生姜と鰹節だけで十分に堪能できる。ここでビールを終え泡盛にする。店主に聞いて首里という泡盛の10年古酒をロックで頼んだ。ブランデーのような味と香りだ。おそらくブランデーかシェリー酒の樽で熟成させたのだろうと思いきや、そうではないという。
次に頼んだ琉球王国の10年古酒も似たような味がした。これが泡盛なんですと言われるも、なんとなく釈然としない。私は若輩者の酒好きだ。経験が少ないとはいえ泡盛もいくつか嗜んできた。その中では、古酒でも泡盛らしい泡盛の方が私は好きだが貴重な体験ではあった。後日、首里の咲本酒造で見学試飲の際に聞いてみたところ酵母にも色々あるし、若者の泡盛離れのためそういったものも出てきたのだとか。確かにお酒を好きな人というのは相対的に相当少ないと感じる。飲み会という場でのコミュニケーションツールとしては嗜むが1人では呑まないし金もかけたくないという人は多い。それも時代ということなのだろう。
最後は、それぞれ島豆腐の上に乗ったカラス三点盛。スクガラス、イカスミガラス、もう1つは何ガラスだったか酒盗のようだった。一番癖があって好き嫌いが別れるというのがスクガラス。確かにツンとした発酵臭を感じるが、くさやを好んで食べる私には堪らない逸品だ。泡盛との相性も抜群である。〆にイカ墨のジューシーも頼みたかったが、ゆいレールの終電が心配で何より眠くて仕方がなかった。3時に起きて始発に乗って来たのだから当然である。本日はこれまでということで店を出ることにした。お会計の際、今回は持ち合わせがあまりなかったのでカード払いにしようかとも思ったが3600円くらいだったので現金で支払った。安い。翌日は10時にチェックアウトだ。いよいよ明日、辺野古に現地入りする。部屋に戻りシャワーを浴びて、持ってきた「日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか」と自前のノートで日米地位協定についてのおさらいをし床についた。

5月10日(日)7時起床。朝食を食べ10時まで本に目を通したりニュースを横目に見ながらゆっくりと支度をした。チェックアウトを済まし車の同乗をさせて頂くT夫妻と初めて顔を合わせた。奥さんはうちなーんちゅで旦那さんは横浜からの移住者だそうだ。しかも偶然同じ大学の芸術学科出身。話は大いに弾んだ。肩肘の張ったところのないなんとも緩かな空気をまとったご夫婦のおかげで、その日は徹頭徹尾救われた。過去から現在までの沖縄、デモに行くということ、沖縄学の本の紹介、小さい頃の何気ない思い出やうちなーんちゅならではの沖縄観を伺うことができた。辺野古基地のフェンスでぶった切られた悲しい浜で、初めてみたヒトデの抜け殻も頂いた。
那覇市内から車を走らせ1時間ほどの伊芸サービスエリアで他の会員の方々と合流。今回の企画を取り計らってくれたAさんにご挨拶をし、自己紹介をしたりしながら藤原新也氏を待つ。30分程して氏が登場。上背もなく何気無い格好をしているだけなのになぜか遠目にも目立つ、やはり何かしらの天分を纏った人なのだろう。オーラという言葉は嫌いであるが、そうとしか言えないものが色濃く滲み出ていて凄みがある。サングラスで隠された目は確実に人を射抜く目だった。嘘も虚栄も通じない、怖い人だ。しかし物腰は年相応に柔らかく声は渋かった。もっと声には張りがあり威圧的な棘のある方を想像していたが、おそらくそれは10年以上前の氏の姿ではないか。それでも独身の厳しさを感じる一人の天然自然の男がそこに居た。仲良くなれるかななどという甘い考えは後ろ姿を見た時すでに吹き飛んでいる。雷に打たれたという表現はしばしば目にすることがあるが、まさにそれに等しい一瞬の体感であった。こんなぶ厚い空気を纏った人間に接したのは初めてだった。しかし反面悪い癖で、挑みかかりたいような暴力性が身体の中を駆け巡っていた。既にして負けているからこそ負けたくないのだ。首筋にかぶりついて喰いちぎってしまいたい。そのまま海まで走って行って血まみれのまま海に沈んでしまいたい。現実に、そういう去来する思いを湧いては抑え湧いては抑えていた。
そこからまた1時間ほど車を走らせたところの未來宜野座サービスエリアで食事をとった。芸能人の色紙がたくさん飾られていた。ソーキそばを食べた。初見の方々との距離が近すぎての緊張からまったく美味しいとも思えず、早く食べ終えることだけに集中するただの栄養補給をした。温かなT夫妻に勧められるまま駐車場で開かれているバザーを見て廻った。昔はここで米軍払い下げの闇市が開かれていたという。2tユニックに米軍の小さなコンテナケースを積み込んであらゆるものを売っている人がいたり古本屋さんがあったり極めて雑多な市だった。それだけに異国情緒に似た空気が強く、完全な過剰意識であると自認しつつも脳は勘違いをし海外にいる時と同質の身の危険すら覚えた。
そこからさらに車で30分。いよいよ辺野古だ。まずは浜に設営された抗議のキャンプ村へ。しかし浜辺のキャンプは迫り来る台風を警戒して骨組みだけになっていた。T夫妻も自然と口にしていたが、沖縄の方の台風への意識は東京の人間と比べると桁違いだ。それだけ猛烈な勢いを伴って上陸してくるということだろう。日本人が総体として諦めの根性が座っているように、土地の自然の性質は文化や人格形成に極めて密接に関わっている。そこに近隣との地理的条件が加わり政治が始まるのだ。かつては南方と大陸方面から命からがら渡ってきた人達で構成されたであろう、アニミズムを中心とした縄文人のいくつかのコロニーから、やがてそれらを平定する者があり琉球王国へ。当初は薩摩に、やがてはヤマトに睥睨され沖縄になってからは日本国に裏切られアメリカに土地を奪われた。あまりに美しく神聖さすら感じるこの島は、善きも悪しきも呼び寄せて今なお明暗の陰影を沖縄の上に色濃く落とす。沖縄をリゾートとして見てしまっては産土を感じることは叶わない。美しい海には死の陰が浮いている。戦争で分断されかかったニライカナイへの道は血塗られたところを避けては通れなくなってしまったのだから。
海辺のキャンプから裏に回り事務所のようなところに案内をして頂いた。そこで資料を頂き、実際にご自身も出身地域のリーダーとして18年前から反対運動に参加している女性から説明を受ける。18年の沿革の中で辺野古の豊かな海に触れ、失笑を交えて政府や右翼団体の矛盾と横暴の歴史を淡々と語って頂いた。沖縄の米兵は絶対的正義を刷り込まれ送り込まれてきた10代の若者たちが多い。自らが歓迎されていると教えられた彼らにとって、自分たちへの市民からのバッシングはまだまだ感受性の強い年頃の心に重くのしかかることだろう。本来は市民の矢面に立って交渉するはずの政府が税金と国家公務員を駆使して市民を暴力的に追い詰める。遡れば昭和天皇やその近習らの敗戦後共産主義革命への恐れにまで行き着く1952年に調印された日米行政協定。その後は沖縄を犠牲にして政治における軍事的なストレスを回避したいと考える、既にして戦争責任を感じない日和見主義の官僚らにより米軍基地駐留は破格条件の売国行為として、日米地位協定と名前を変えるが中身は変わらずに引き継ぐ形となった。銃剣とブルドーザーにより奪われた土地の返還要求。それに対する交換条件としての基地移設に振り回される市民運動。しかし、セクト化し公安のスパイに扇動され内部抗争に発展し瓦解する一連の市民運動の流れはもう変わったようだ。国家間の稚拙な対立感情をよそに、韓国の米軍基地駐留反対の市民団体とも交流が深い。草の根的な活動を続けていくことで少しずつでも現状に歯止めをかけることができる。それがいつか大きな流れとなって世界を変える流れとなる。18年もの間、座り込みなど非暴力の抵抗運動に身を捧げてきた一人の人間の言葉は、理屈ぬきに重く胸に迫った。
次に我々は辺野古の海を隔て米軍基地を囲む柵を見学し、集合写真を撮りしばし美しい海に想いを馳せた後、キャンプシュワブゲート前に陣取り抗議活動を続けているテント村へと移動した。こちらでは連日声をあげ精力的に熱烈な抗議を続けている。その日も50人ほどはいただろうか、ちょうどゲート前で抗議の声をあげているところだった。警察車両が犯罪だ去れと機械的に繰り返す中、後ろでは自身を疑ったことなど生涯一度もないような傲岸不遜の顔をした警官が憎々しげにメンチを切っていた。一通り海保介入反対などの看板を掲げ沖縄を返せと訴えたのち、沖縄返還の歌の合唱がはじまる。この時はじめて革命と歌はセットなのだと痛感した。歌による集合の一体感は予想を覆す効果を持っており、言葉よりもその意志が形となって圧倒していた。これはおそらく本気の抗議活動の中に身を置かなければ体験できないだろう。アーティスト気取り芸能人のライブとはわけが違う。たまらずメンチを切っていた悪相の警官が滑稽にもメガホンを持ってゴニャゴニャと叫んだものだ。以前、震災後原発問題への意識が高まった頃の高円寺から新宿へと練り歩くライブデモに参加したことがある。大変な大人数だったが、集まっている若者は一様にヘラヘラとしたヒッピー面で、原発のなにが問題であるかも理解していないような者ばかりだった。当然、一体感も戸外で音楽にノる程度のもので抗議としての強さは皆無だった。あぁ、こりゃ駄目だと思いそれ以来デモは自己満足であると決めつけていた。そういった意味で、私は今回はじめて本物の市民活動というものに触れたのだ。そこには時代の中で失われつつある、人間が人間として在るための存在の厚みのようなものが生き生きと脈をうっているように、私には感じられた。
最後に辺野古の海を一望できるカントリークラブ内の小高い丘に車を移動させた。日曜日のため人はいない。ただでさえ台風が迫り来週には県民大会を控えた母の日。普段なら20人近くの集団が基地周辺をウロウロしていたら警官がすぐにでも小うるさく駆けつけてくるそうだが、こんな日はきっと休んで家族と共に過ごしているのだろうと言う。そんなところにも沖縄人の包み込むような優しさを感じ取ることができる。この日行動を共にした人達の中に、日本政府を批判することはあっても米兵に同乗はすれど憎しみをぶつけているような人は一人もいなかった。
広大な範囲に張り巡らされた赤いブイの内側を海保の巡視船が三隻、緩やかに動いている。あぁ、我々の税金があの美しい海を護るのではなく破壊されるためにばら撒かれているのだなと思うと、なんともこの国の国民であるという事実が情けなく遣る瀬無い思いに駆られた。

ここでそれぞれOFF会開始までは自由行動ということで、再びT夫妻の車に同乗させて頂き、OFF会会場のある北谷へ向かう。北谷も昔は米軍基地があったところだが1981年に返還されている。今ではアメリカンビレッジという広大なレジャー&ショッピングスポットに様変わりし、県内唯一の観覧車がある若者と外国人に人気のスポットだ。ちなみにここにもどでかいIONがある。OFF会の集合時刻まで著名な版画家のミュージアムを見たりカフェで休んだりしてアメリカンビレッジ内で過ごした。そこでT夫妻にご馳走になったタコスが意外にも旨く、良き思い出として心に刻まれている。T夫妻の旦那さんは徹夜あけでの参加らしく、ここでT夫妻とはお別れになる。初めて会った若輩者の私を非常に親切に扱って頂いた。貴重なお話もたくさん伺うことができた。そして何より温かく楽しかった。
沖縄の人は客人に対して絶対につまらない思いをさせないという気持ちがあるのだと語ってくれた奥さん。そんなうちなーんちゅの気質を体現しているような夫婦だった。心から感謝の礼を述べてOFF会の会場へ向かう。

藤原新也氏を囲むOFF会に参加した。自己紹介をし呑んで食べて話を聞いた。とくに発言をする必要もなく終始和やかな雰囲気で会は進められた。会員の方々は皆とても良い人ばかりであった。年若く人間嫌いの私を遠巻きに気遣って頂いている優しさが感じられた。宿のチェックイン時間である21時をとうに過ぎていたため野宿になるかもしれないとお話したところ、即座に調べて電話をかけてくださった。歩いていくというと心配だからと車で送って頂いた。宿の管理人さんも私を心配してくれていて、0時までは待つつもりであったという。宿に着いたのは殆ど0時になろうという頃だった。
部屋は一人にはもったいないほどのコンドミニアムで、洗濯機も炊飯ジャーもありダブルベッドでジャグジー付きのオーシャンビューだった。荷物を置いてコンビニへビールとお茶を買いに。ビールはもちろんオリオンビールだが、夏限定醸造のアロマホップ使用にした。お茶は翌日も持ち歩くつもりで1ℓのペットボトル。シャワーを浴びホッと一息。さすがに疲れていた。1日を思い返す。たくさんの優しさに支えられた1日だった。沖縄は温かい。
明日は6時半の始発バスに乗って那覇を目指し首里城見学をするつもりであったが、もう1時半をまわっていた。起きられたらということにして9時に保険の目覚ましをかけ床についた。

5月11日(月)朝6時。「おはようございます。6時になりました。」聞き覚えのある声、見慣れた顔。3mほど向こうにあるTV画面から今日も元気にニュースキャスターが何やらを伝えている。よくわからないが起こされたと思った。まだボーっとする頭で考える。行けということか。無駄にするなと。しかしこれはありがたかった。危なく貴重な最終日を無駄にしてソーキそばを食べて帰る羽目になるところだった。目標に対して尻すぼみになりやり切れないことが多い自身の非常に悪い癖だ。睡眠は飛行機の中でとればよい。
起き出すがまだボーっとしている。たらたらと支度をしているうちに7時近くになってようやく行く気になってきた。もともと7時には出るつもりであったのでシャワーを浴びてシャキッとする。出てきてちょうど7時。突然TVが消える。そうか、早よ行けということか。ぱっぱと用意をし10分程で支度を終える。念のためTVかリモコンに自動ON/OFFの予約機能があるのか調べてみたが、見つからなかった。私を叱咤するように点いたり消えたりしたTVの謎は解けないままに宿にさよならを告げる。
手違いでバスを一本見送り20分ほど待つことになった。無事に次のバスに乗り込んだがしかし、ゆいレールに乗れるのは終点の那覇空港だという。那覇空港と首里の間は約30分かかる。帰りの飛行機は13時20分。時間が限られていた。8時を過ぎた頃、那覇市に入ったバスは朝の混雑した交通帯に入った。少しすると看板に空港の文字が見えてきて見覚えのある地名がぼつぼつと見えはじめる。首里方面が示された看板を過ぎた。焦りはじめる。まだゆいレールは確認できていない。目を皿のようにしてゆいレールを探した。美栄橋でついにゆいレールに遭遇!ゆいレールがあるから降りると言うと、ここでは駅まで遠いので県庁北が良いだろうと言う。終点とか言ったじゃないか!という思いが湧かなかったわけではないが、降りる際に両替機に無い5千円の両替もおそらく手持ちのお金でやってくれたので、一先ず感謝である。道を渡ってすぐの県庁前から首里へ向かう。首里から4つ目の駅おもろまちに着く。ここも昔は基地だったところだ。よく観察する。すぐに面影をみつけた。植栽がきれいに植えられた駅からまっすぐにのびる中央の道。おそらく滑走路か何かだったのではあるまいか。また一つ沖縄の抱える負の遺産を目に焼き付けた。ほどなくすると終点の首里だ。窓の外に見えるビルの屋上に、ひそかに目指すソーキそばの名店「首里そば」の看板が見えた。起きてからインターネットで検索しながら今日1日のスケジュールをざっと立てておいた。まずは首里城見学。次に首里そば。もし並んでいて食べられないようなら大東鮨セットがある美栄橋の元祖大東そばだと決めていた。地図もばっちりノートに描き写してある。Wi-Fiがなくても迷うことはない。

駅を降りる。念のため改札で駅員さんに首里城までの道を確認し徒歩で向かう。10分程度で入り口に着く。案内に従い公園内を散策する。清潔な公園内には琉球松が植えられていて、丁寧にカットされた石が積み上げられた。腰の高さくらいの城壁に囲まれている。階段には手摺が据え付けられていて老人にも安心だ。修学旅行生たちがわらわらと見えている。そうか俺も修学旅行で来たのだなと思いつつも記憶はただ赤い建物のみで、まったく新たな目で肌で首里城を感じていた。途中、僅かではあるけれど修復前の城壁を確認することができる場所があった。修復後の壁とは明らかに違い、もっとゴツゴツとしていて不揃いな琉球石灰岩だ。修復後の壁は整然とシャープに組み上げられていて沖縄の人の中にもこうしたソリッド感があるのかとも思い、粘り強く抗議を続ける市民の姿を思い繋げてみたりした。歓会門前の狛犬をしばし見て中に入る。やはり東京近郊などでよく見る狛犬の造形とはだいぶかけ離れている。公園内にはところどころ御嶽を思わせるような控えめな神域があったりして、それだけでもやはり見にきた甲斐があったと思わせるには十分であった。歓会門から瑞泉門へ、漏刻門をくぐると真っ赤な広福門と北殿がそびえている。ここからは有料なのでチケットを買い奉神門をくぐる。赤い門をぬけるとパッと開けた床面に紅白のボーダーが敷かれた御庭がある。このボーダーは単にビジュアルだけのものではなく儀式の際に首長達が座るためのガイドラインの役を果たしたものだという。立派な正殿を拝み、案内に従い右手の南殿から靴をぬいであがり内覧する。南殿の外壁には朱が塗られていないが、歴史資料としてそうなっているものらしい。展示されている美術工芸品や映像資料を見ながら書院、鎖之間と庭園を通り正殿に入る。正殿までは木材の温かな香りに包まれていたが、正殿は懐かしい漆の香りで満ちていた。これだけの漆の作業が大変な難儀であることは想像に難くない。空港に降り立った時に感じたあの湿度が、これを実現できた奇跡の一端であるのは間違いないだろう。かつて漆の城をといった殿様はほかにもいるが、漆工は塗ることはできるが乾かす風呂を造るのに大変なコストと労力がかかるため不可能だと答えたという。うる覚えだが、たしか漆は湿度が65%ないと固まらなかったはずだ。沖縄の海風と湿度は保存には向かないかもしれないが、漆を塗る際には大いに助かったのではあるまいか。かつては漆に豚の血を使ったというのはことさら朱にこだわった結果であろう。供物への感謝も含まれているに違いない。何かしらの気候に対しての素材的な必然性もあったのだろうか。それだけに、厚い朱に染められた正殿は一種異様な威厳のある空間になっている。やはり、再訪すべくして再訪したのだと沖縄に感謝する。アニミズムの沖縄、日米関係の沖縄、外交盛んな王国としての沖縄。それぞれ別々の視点から沖縄を体感することで、幾重にも重なる多様な沖縄の姿の一端を垣間見ることがことができた気がする。美しく豊かな海、殺戮の陰惨な影、隆盛を極めた王国の面影。それぞれのコントラストが沖縄の明日を照らしている。3.11からの東北再生のなかで東北学が掘り起こされたように、今こそ沖縄もそのように見つめ直すべき時であると思い様々な人の手を借りて今回の旅のスケジュールは実現した。明日の日本のコントラストを決めるのは民主主義の主体である私達一人一人なのである。あらためてそれを確認したとても意義深い3日間であった。
そんなことを思いながら一人胸を熱くし、久慶門を出て思考の余韻に浸りながらゆっくりと公園内の来た道を戻り首里そばへ向かう。店に着くと開店まではまだ30分あり誰もまだ並んでいなかったので近辺を散策した。すぐ裏の神社を表から覗き、酒造のまわりで芳しい糀と米の蒸される甘い香りを楽しんだ。試飲・特売の看板も出ていたので、首里そばを堪能したあとに時間があれば是非とも寄ろうと勝手に誓い、自販機でおばぁのさんぴん茶を買い木陰で休んだ。曇りとはいえ気温は昨日とあまり変わらない。喉を潤す爽やかなさんぴん茶が心地よかった。開店まであと15分。先ほどからにわかに人通りが増えたような気がする。車もなぜかこんな狭くて何もない道を入っていく。もしやと思い店に行くと既に5人ほど並んでいて今しがた入っていった車も駐車場に停めている。半ば急ぎ足で6番目の列に加わった。中からは元気のよいおばちゃんのおしゃべりと共に食欲をそそる出汁の香りがただよってくる。長く感じる10分程度を待ってようやく店が開店した。まず驚いたのは三和土で靴をぬいで入店すること。予想よりずっと広い木造りの店内で手際よく客をさばくおばちゃんに窓際のカウンター席へと案内される。リサーチ済みのメニューに軽く目を通す。ラフティーの煮こみに興味を覚えるも、当初から頼むものは決まっている。奥から順番に注文をとってくるおばちゃんに「首里そばとじゅーしーください」。店員さんの小気味好い返事を耳にしながら店内を見回した。可愛らしい小物が所々に置いてあり、愛着感のある温かいお店だなと思った。東京によくある無愛想でちょっとオラオラした感じで強面売りのラーメン屋と比べると、嫌でも都会の喧騒とゆったりとした島の時間の是非を思う。
5分ほど待って首里そばとじゅーしーが目の前に置かれた。首里そばにはラフティーとかまぼこと生姜が乗り、上から小葱が振りかけられている。まずはスープを飲む。あっさりとしていてコクがあり透き通ったスープ。ドンピシャの好みだ。麺を啜り無心で頬張る。歯切れの良い麺は筆舌に尽くしがたい食感の平打ち麺で、口の中で切れる時の感触がなんともサクッとしている。ラフティーは脂が程よく落ちていて臭みもなくあっさりとした旨みが凝縮されている。口に入れるとほろほろと崩れとろけるようだ。かまぼこが食感にアクセントを加え、生姜が爽やかさを演出していた。テーブルに置いてあるコーレーグースをかける。まろやかでスパイシーな香りが広がりスープの旨みが引き立つ。美味い。どんぶりを置いてじゅーしーに手をのばす。細かく刻んだ人参と昆布、豚肉が入っていて、上に小葱が振りかけてある。そばのスープと同様にあっさりとした優しい味のなかにしっかりとしたコクのある炊き込み御飯だ。首里そばとの相性も抜群である。夢中で食べていたためか5分程度でスープまで飲み干してしまった。すでに入り口には8名ほど並んでおり、水を飲んで早々にお会計を済ませ外へ出る。汗ばんだ身体に戸外の風が心地よい。
先ほどの咲本酒造へ足を向けた。芳しい甘い香りのする横の入り口を入って奥を覗くと試飲の準備がされている。しかし人がいない。時間もあるわけではないので覗いてみて人がいなかったら出ようと思っていたら運よく人が通りかかった。勢いで案内できますかと聞いたところ、10分くらいならと了承してもらった。まずはシャーレに入った糀のサンプルをみせてもらう。奥の暗がりに整然と並ぶ熟成タンクの方は現在タンクの調子が悪いとかで近くまで行くことはできなかった。順を追って、米を蒸して冷やして蒸してを繰り返す工程から糀を振りかけかき混ぜる工程へ。米を圧搾し蒸留するタンクとタンクを繋ぐ配管、冷却水を使う蒸留の説明。泡盛の沸点は85度程度だそうだ。はなさきの泡盛を濾過して別のタンクへ。通常濾過は2度おこなう。そうすることで度数も下がり呑みやすくなるという。貯蔵タンクはそれぞれ度数ごとに異なりステンレスのものと古いホーローのものを使用していた。ホーローに味のためなどの必然性はなく、タンクとしては圧倒的にステンレスのタンクの方が優れているそうだ。一通りの工程を見学し、いざ試飲へ。東京のデパートやなんかのお酒売り場でやっている試飲会とは違い、まったくケチケチしない。こちらが酒好きだと分かると全ての種類を呑ませてくれて、まるで呑み会のような明るい雰囲気になった。こちらの酒造は瓶詰めまで手作業でおこなうそうだ。古酒の表示も年々厳しくなっているようで、56%以上のブレンドでないと表示は不可だそうだ。しかし、お客さんは古酒のブランドに弱い。良い味を生み出すためにブレンドをし、古酒表示でブランド力を上げたいところだが、法律でそうはいかない。大きなマンモス蔵ではいくらでも貯蔵しておけるが、うちのような街中の小さな蔵ではそんなことできやしない。蔵主の嘆きは、こんなところにまで時代における社会の弊害が重くのしかかっているのかと辛い気持ちになった。もはやすっかり軽くなってしまった財布から、なけなしのお金を出して気に入った粗濾過の泡盛を一本買った。優しそうな蔵主であった。また沖縄に来たらここに寄りたいなと思いながら、蔵主の笑顔に見送られ咲本酒造をあとにした。

時間もかなり押してしまった。離陸まであと1時間。いそいで首里駅へ向かい電車に乗り込んでいそいそと泡盛をリュックにしまう。あとは帰るだけだ。椅子に腰掛けボーッとする。出発間際になりにわかにどやどやと人が乗り込む。とにかく日本中はおろか世界中どこに行っても中国人だらけの地球である。良し悪しの問題ではなく、人口減少が促す固有の文化の衰退はもはやどうにもならない流れに乗せられてしまっているのを痛感する。人口が少なくなったら移民を受け入れて税金をとれば自分達の家は守られるとしか考えない政治家達の傲慢が、何やら憎しみを通り越して只々滑稽に思えてくる今日この頃である。
空港に着いた。道行く女性に、もう帰るからとゆいレールの1日パスを譲る。私は日本人からも韓国人からも中国人からも中国人だと思われている。返事はOh,Thank you.だった。無論、相手は日本人である。
お酒の持ち込みは5ℓまでだそうだ。次は一升瓶を買わねばならない。離陸まであと10分ちょっとというところでゲート前に到着。すでに客が乗り込み始めていた。帰りは別れを惜しむべく窓際の席をとっていた。なんということだ。飛行機の羽しか見えないではないか。飛行機が陸を離れると、首を捻って後ろの窓から沖縄に別れを告げた。美しく蒼い海がきらきらと光をはね返していた。海が雲に隠れてしまうまで首を捻り続けた。