気がつきにくい日々の高速な変化は極めて邪悪に満ちている(という題にアレルギー反応を起こすのが”反知性主義”と言われる人達である)

誰も読まないであろうBlog、久々の更新である。

個人的にも世間的にも矢継ぎ早に色々なことが起きたため、考える時間が必要だった。
個人的には、4年間申請をし続けてきた南アフリカへの留学が語学力不足のために断念せざるをえなくなった。これは大きな挫折である。
作品については、新たな手法に辿り着きこれからに期待が持てる。目下制作中であり久々に全身全霊を懸けた作品が出来上がるため、然るべき発表の場も用意しなければならない。
英語の習得は来年フィリピンで行うことにした。期間は4ヶ月~6ヶ月。その前にサイト内における作品のアップロードと新しいポートフォリオの作成をしなければならない。今回は打ち合わせのためフランスへ行く必要があるだろう。
と、個人的な事柄は文字にしてみればざっとこんなものである。
あったはずの葛藤も逡巡も喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまった。

しかし、社会的な事柄についてはそうはいかない。秘密保護法、安保法制、辺野古基地建設、国家戦略特区、シリアの難民受け入れ、マイナンバー制度導入、TPP…

本来、時間をかけて市民への理解を求めていかなければならない重要な事柄が目まぐるしい速度で矢継ぎ早に、そして乱暴に民意を無視しながら決定されていく。

国家はもとより人間はどこへ向かおうとしているのか。
誰もが避けようとしながら呪いの渦に巻き込まれていった先の大戦のように、我々は少しずつ三度目の地獄に歩み寄っているのだろうか。

全てに共通して言えるのは、民衆の不勉強のために民主主義が悪用されていることだ。
政府お抱え主要メディアの提供する賛成か反対の二元論に惑わされ、自身で考えることをせず根本を捉えられない多数派が作り出す現状は、社会の思考停止=民主主義の崩壊を招いている。
これだけ高速にしかも民衆にとってはあまり嬉しくない法案が可決されまくるのは、民衆による個々の生活と給料以外への無関心と他者の気持ちを理解しようとさえ思わない政治家二世、三世のぼんくらが無意識に強力なタッグを組んでいるからだ。

広がる一方の格差は国内に留まらず世界的な問題だ。
所得格差は教育格差を生み出し階級意識を育む。 階級意識は選民意識を生み出し差別を育む。
走り出しから暗雲の立ちこめるオリンピック後に予想される空虚な社会は、不法を含める移民だらけのなか税金と介護に追われる神経症の大人達で溢れ、暗く淀んだ空気に包まれたものになるだろう。

興味深い統計がある。
“もうこれ以上良くならない”という空気の時代ほど民衆の幸福度は上がるというのだ。理屈としては、”もうこれ以上良くならない”ため、希望という餌がない。希望もないので、欲もない。欲がないので、まぁ今が幸せかな。と、思うらしい。

思わず笑ってしまったが、どうやら本気でそういった統計がでるらしい。
しかし、落ち込んでいく時代の空気に抗いたいという希望はないものなのだろうか。

例えば民主主義の希望は、我々の意志が社会を造るのだ!という希望であるというように。

なにも可決された法案の全てに断固拒否の気分があるわけではない。
肯定的な目線で捉えれば、秘密保護法にしろハッキング技術の進歩に合わせ脆弱な国家の機密情報を扱う情報管理の根本的な見直しが必要であったことは事実であるし、安保法制にしても辺野古基地建設と合わせて日米地位協定の見直しをするには、自国の安全と世界の平和を踏まえた新たな安全保障政策を再考しなければならない。シリアの難民受け入れについても、戦犯国のレッテルを剥がして世界国家たる国連に認めてもらいたいのであれば、受け入れの方向で考えながら如何に日本の雇用、治安、文化、習俗を護っていくのかということに向き合わなければならない。TPP、国家戦略特区においてもそれはほぼ同様のことがいえる。如何にイニシアチブをとりながら諸外国との協力関係を築いていくかが、国内の政治家の足の引っ張り合いばかりで外交下手の日本にとっては永遠の課題だ。
しかし、マイナンバー制度の導入については管理コストの削減を頭に掲げているが、残念ながら私にはただの温室育ちで無能無智なぼんくらが考え出した管理欲の具現化のようにしか感じられない。確かシステム投資に3千万の血税が当てがわれたのではなかったか。財務省からの発案だとどこかで聞いたが、発案者が政治に不可欠な巨視的な視座を持っているとすれば、流動性と多様性を失わせる過度な管理体制は益々市民の財布の紐を固くし経済の流動性を滞らせることになるだろうことに気がつかないはずがない。民衆から財源を絞り出すことばかりに悪知恵を働かせる前に、税収がいくら増えても使途不明金やおもいやり予算という名の対米軍事献金ばかりが増えるだけの悪習を見直す必要があるだろう。集団的な個別合理性が集団合理性においてマイナスにはたらくのは先の太平洋戦争で十分に反省できたのではなかったのだろうか?

いや、思うに江戸時代の封建性を明治維新によって国民国家へと移行し、社会主義的な形へとエスカレートしていった異胎の国は、民衆にとっては只々恐ろしい地獄の門番のようでしかなかったのではないだろうか。そうだとすれば、敗戦は実は多くの民衆にとって”解放”であったかもしれない。敗戦後あまりにすんなりと受け入れ、憧れさえ抱いた米国への不思議な感情は彼らが憎むべき鬼畜ではなく、むしろ自分達を統制していた軍国主義ベースの国家こそが真の迫害者であったということを即座に理解したか、感覚的には既に分かっていたからではないだろうか。

だとすれば、やはり歴史は繰り返す。
何故なら、明治維新政府こそがそれまでの幕府から解放された喜びと気負いに溢れた政府であったからだ。
彼らは次第に派閥化していき結果的に退っ引きならない状況を自ら招き、敗戦を迎え民衆を解放すると共に後世に戦犯国のレッテルを引き継がせたのだといえる。
戦後によって民衆が解放され米国と互すことを目標に戦後復興をがむしゃらに目指して成長してきた日本の姿はそのまま明治維新後の日本に当てはまる。散切り頭を叩いてみれば~♪と歌った明治の庶民は、その後に訪れる地獄の昭和を想像だにしなかったろう。

戦後は70年を迎えた。
米国ではそのような数え方はしないというが、米国ばかりををスタンダードだと考えそれに合わせたくなる気持ちは理解ができない。
国土が焦土と化した記憶や今も沖縄に燻り続ける”戦後”は、我々にとっては今だ現在進行形のものであるはずだ。少なくとも私にとってはそうである。
太平洋戦争の原因の一つには、不況による市民のネガティブなストレスもあげられる。
暗い見通しばかりの現在の日本は、いや、行き詰まりの相を呈する現在の世界は、果たして戦争というリセットボタンを押さずにこの暗澹たる局面を乗り越えることができるだろうか。

いやな仮定だが、もし新たな大戦があるとすれば次は中東、中国、米、露が主役となるだろう。
米中露が睨み合えば、間違いなく日本は最前線の戦場だ。しかし、その可能性は極めて低い。どうやら鍵を握るのは中東の動向となる。
そこまでは私の範疇ではないが、注視していくべきだろう。

まったく面倒で複雑怪奇な世の中である。これに加えて反知性主義という分厚く馬鹿らしい壁が在る。
私はこの時代に生まれたことを必然と捉え、本質を見失わずに、負を引き受けながら、淡々と日々を重ね記憶の暗号を更新していく。

やがて朽ち果て消えていく魂の夢をみながら。