梅雨空に 皮肉な気分の 雲間かな

NHKの偏向放送は既に周知の事実である、と私は勝手に思っている。
NHKは公共放送である。私達の受信料を元に運営されている。すなわち、国民一人一人が出資者なのであり国民のごく限られた少数である政治家の意向をアンフェアに反映させた現在の偏向放送はまったく正当なジャーナリズムを踏襲していない政府のお抱え放送局であるといえる。

は?いったい何が?と思う人間は私の予想を反してかなり多いことだろうと思われる。無論、NHKの番組にはとても質の良いものもあることは承知している。しかしそれは数々の会議と編集を経て、現政権の地盤に影響がないかあわよくば好印象を与えるものであるかが徹底的に精査されたのちに、予算を組むことができ番組の質をあげることができたという極めて偏向的な結果なのである。
それでも、うるさいな。番組が良ければそれでいーじゃん。どこにでもいるよね。こういう重箱の隅をつつく人。という人もいるだろう。その多様性こそが大事なのではあるが、まったく無知と勢いは権益と原子力ほどに相性が悪い。もしくは負としての最高な相性の良さを秘めている。
そんな人のためにフレッシュな情報をひとつ。

集団的自衛権について政府与党が選んだ法学者によってそれが違憲であるとの見解が発表されたことは今まさにホットな話題だろう。たぶん、後藤真希の妊娠報道、もしくは榎木孝明の絶食くらいには。そんな中、今日たまたま見ていた放送では違憲とするという発表の事実は前提としながらもその言説はまったく示されず、新たに指名された違憲でないとする日大と慶応の学者が宣った内容だけはわざわざテロップ付きで報道されていた。本来なら記者からの鋭い質問の一つでもあったのではないかと思われるのだが、そんなことをする”公共”放送ではない。
ここには明白かつ意図的な情報の取捨選択と編集がおこなわれている。何も知らない、分からない人がみれば、完全に違憲だと言っている人間がそのまま多数決原理の中でも少数派であり、合憲という人間が多数派であるという勝手な意訳を促すことは間違いないだろうと思われた。

考えすぎならそれでいいと、むしろ望む。その方が世界は幸せだ。強迫観念ならば個人の中で行われているだけで、世界はまっく清々しいものなのだから。

こういった放送はTVを見ていれば腐るほど目にするものだと思うが、果たしてその感度は総体的なものであるのだろうか。見た時にはこんな子供騙し…と思っていれば、沖縄の基地問題に関しても、基地はおかなければいけないんだから何を騒いでんのと平然と発言する人も少なくない。反対の意見というか事実については述べなければならないことがあまりに多いので、ここでは割愛する。興味のある人は「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」や、「もうひとつの核なき世界」「ルポ貧困大国アメリカ」などを読まれると良いのではないかと思う。無論それとて人によってはこれこそプロパガンダという人もいるのだろう。やはり、それも多様性だ。

多様性を認めるということは、時として非常に自身の気分を害する事実を認めなければならないということでもある。そんなストレスは政治家でなくたって基本的には誰だって嫌なものなのだ。誰だって避けたいものなのだ。だからこそ、歴史上で政治に熱い思いを抱く者ほど独裁を敷きたがりやがては差別と格差を蔓延させ国家の崩壊を招くのだ。
犯罪者も独裁者も、IQが高かったり優等生であったという決して稀ではない事実を忘れてはならない。世の中で”まとも”だと思われている人間ほど、想像もつかないような残酷な悪事をはたらくものなのだ。

しかし、まんまと騙されてしまう方も阿保ならば、そんなことで騙しきれると考えている方も阿保である。阿保が阿保見て阿保に死ぬ。つまりは、馬鹿が馬鹿な情報を鵜呑みにして馬鹿を育てて無知のままに死んでいく。ということだ。
反知性主義の日本とかも言われているが、とかく一億総じて馬鹿ばかり。一億一心火の玉だ。恐れなくして死に進む。戦後新たな天晴れ帝国に、うん、幸あれ。ば?かな。