この脳だって身体だって遺伝子だって、僕らはみんな記憶の運びやなのだ。
だから人間は太古から記憶を感知することができていたのだし、小さな石ころから宇宙の原始に想いを馳せた。ただ、いまの僕らはいささかその美しい能力を忘れてしまっているだけ。
僕らの中に在るどうしようもなく愛しいもの。それは、”場の記憶”。たとえば僕やあなたがこの場に発生したという奇跡と事実。日本も日本人もない、国民国家以前の遠い遠い場の記憶。
記憶は僕らがいつもエネルギー媒体を口から入れておしりから出しているように、僕らの身体を使って融合し咀嚼され、あらたな記憶を紡ぎだす。記憶にも相性はあるのだし、どんな記憶とでも合わさることができるわけじゃない。顔や形や嗜好はたまたま記憶が宿った身体がそうだっただけ。表面的な事象は現代で信じられているほど本質的な意味を持たない。だから、本当なら整形だってエステだって必要ない。そして迷うことなく、愛は信じていいものだ。それは本質に対しての心の感応だから。受け取って、与えて、感謝をする、人間が持っている愛しい感応の一つなのだ。
記憶を感じられるということは、暇だとすぐに管理をして破壊と戦争ばかりをしたがる愚かな人間達の唯一の救いだと僕は思う。
破壊や戦争はただ、脳だけを信じて脳だけを通して世界を限定させてしまっている、我々の不憫な結果だ。それらは常に僕らにとって不都合な真実を孕むものだけれど、我々以前に宿る記憶は只々連面と静かに紡がれ誰にも何にも不都合などは生じない。そういう類のものじゃない。
感情は身体からやってくるもの。脳は感知をして連想をし想像をし記憶するもの。視覚や聴覚だけに頼ってはいけない。風や土の香りをかいで触れてみる。記憶を感じて味わってみる。
そうしたらきっと、心の奥底でずっと探していたものが、その寂しさの根源が、うっすらと、ぼんやりと、顕れてくれるかもしれない。
だから僕は記憶をつくる。せっせせっせと記憶をつくる。
いつしか忘れられてしまった、世界を包みこむあなたをさがして。
追記として;
記録は具体的な記録の意図を持って記された二次的な資料。記憶は総体的で抽象的で思いや感情が反映される意識の夢。