英訳用 論文;Memory Code

2015年6月、今現在までごく小規模な旅行や留学を除いて私は日本で生まれ、現在まで育ち、生きてきました。
英語のLIFEは、日本語では”人生”と訳されます。人生は JINSEI と発音します。JINSEIはJIN(人)とSEI(生)という二つのパートに別れます。漢字は一語でその意味を表します。”人”(JIN)は人間のことを、”生”(SEI)は生きるということを表します。合わせて、”人が生きる”という意味を表す漢字になります。
日本では国民の三大義務として勤労・教育・納税が据えられています。即ち、日本においての”人が生きる”ということは、学び、働き、税金を納めるということです。少々の意訳になるかもしれませんが、これは本来他の動物に比べて集団による社会を形成し食べて寝る以外での生き方の選択を成しうることが人間を人間たらしめている特徴だとすれば、本来我々が持っている”自由”を自らを保証するはずの機構としての社会に拘束され奪われているというパラドックスの中に我々が囚われいるということができます。この場合、本来それぞれが他者を支え合いながら保証し生の自由を享受することができる人間の生とは、紋切り型の小中高大就職結婚出産出世というボードゲームのようなものとして限定されています。
ちなみに英語のFreedomは日本語では”自由”と訳され JIYUU と発音します。これも二つのパートに別れ、”自”(JI)と”由”(YUU)それぞれに意味があります。そもそも”自由”とは仏教用語であり、”自”は己を指し、”由”は理由や趣旨、方法や手段のほかに体裁、体裁をつくること、表面にあらわれた様子などの意味があります。つまり、”自らをもって由とする”=自らによって体裁、方法、顕れるかたちを決めるという自己責任観の強い規範的な意がこめられています。
これは、英語のFreedomとは少し主とする意が異なります。英語のFreedomは、主に非拘束性と自己の解放という意があり、規範的な意味は感じられません。無論、結果的にそこには同じく自己責任は伴いますが、自由な行いにまず釘をさすようなことは良くないことと感じられるのではないでしょうか。
生きることの選択の自由は必然的に現在よりも質の高い生活を求めることを促します。そして、それは少なからず他者との比較を孕んだものとなるでしょう。これらはしばしば向上心といわれますが、教育的格差により取り残され地域を超えた世界を知らずに飢餓や貧困に喘ぐ人々は向上心旺盛なグローバルマネー渦巻く世界経済や国家の中でどのように扱われるのでしょうか。
世界基準で見てもあらゆる分野における格差は深刻な広がりを見せていますが、ここでは私達日本人にとって身近なものを取り上げたいと思います。まず私の住む日本においての深刻な問題は少子高齢化社会と憲法9条をめぐる自衛の範囲の問題です。憲法9条については第二次世界大戦以降、武力放棄と戦争への不参加を憲法によって遵守してきた日本の安全保障問題の根幹を揺るがす大問題です。少子高齢化社会については第二次世界大戦以降の小康的平和を足掛かりに一斉にスタートを切った年老いた先進国において共通の深刻な社会問題です。日本はこれまで厳しい移民政策をとってきましたが、近年では少子高齢化と諸外国からの圧力により相当の緩和が進められています。まだ規模は小さいものの外国人に対しての排斥運動などもでてきましたし、世界的に見られる移民問題もこれから深刻化してくるでしょう。一方、国家間の安全保障を含めた数々の条約により日本側が隷属的とも言える紐帯を結ぶアメリカでも格差と差別は銃社会と結びつくことによって極端な思想の形成や凶悪な犯罪と差別意識を深刻化させています。近年ではオバマケアという国民皆保険制度が注目されていますが、制度自体は一見して良いもののようにみえるようにパッケージングされながら、内実は国家の搾取と製薬会社を筆頭に投資家のマネーゲームとして国民が搾り取られる機構となっており、一部の富裕層のみが高級な医療を受けられるという差別的な構造が相当な生命的格差を生み出しています。
これらの問題はなにも日本とアメリカについてのみいえることではなく、世界中で抱えられている早急に対処すべき近代国家の淀みといえるでしょう。しかし、だからといって世界中でおこなわれている市民ボランティアや宗教団体やNPOによる救済支援や活動などを無視することはできません。偏らず、冷静に考えを進めていくことが肝心です。前述してきたように、問題の根幹として横たわるのは各分野における人間としての在り方や対処の仕方、教育による自由における責任や道徳や倫理の形成、つまり総体として一人一人の意識であると私はみています。個々の意識を形成していく上で最も大事なことは、個と他を相対的に捉え個の認識を生み出す以前に、私達が国民国家以前のただの”場”における自然的生成物としての”人間”あるということへの認識です。その土地の気候風土により育まれた固有の生態系と同じように生成された固有の文化や価値観が、固有の気候風土により形成されうる自己を顕現しているのです。つまり、英語における”Freedom”により開放されると考えられる”自己の本性”とは個の遺伝子コードに記憶された”場の記憶”であると考えられます。ということは、私達は私達である以前に未生の存在としての情報高分子なのです。
情報高分子についてもう少し詳細な解説をすれば、地球上に生命が誕生したのは約40億年前といわれています。その前の48億年前後に地球は太陽系の一員として自立を果たし、定説ではそこに宇宙から生命の種子が降り注ぎました。地球生命の誕生は大まかにオゾン層や大気を生成する大気の還元性といわれる総体として”大気の変換”、太陽や雷撃や火山活動による援助を得たうえでの”エネルギーの獲得”、アミノ酸などの生成による”分子の形成”、ポリマーの成熟による”吸着と集合”、核酸の活躍による”情報の保存”といった5段階の条件を満たしながら準備を整えます。ここでは煩瑣を避けるため5段階目の”情報の保存”だけに注目します。ここでの主役はつまり、生命の基本であるDNAです。既にできあがりつつあった生体高分子が自らの情報を保存するのに一番確実な方法は、情報の転写のできる自己複製能力をもつことでした。保存には核酸が主役となります。現在知られている地球上の生命はすべて核酸によって自らの情報を保存しています。このことがつまり核酸の一つであるDNAが遺伝情報を保存し、それをもう一つの核酸RNAに転写して自己複製の舞台をつくるという、遺伝分子学の有名なプロセスです。セントラル・ドグマともいわれています。こうして生命は情報高分子としてのスタートを切ったのでした。
つまり私達がそもそも私達以前であるように、あたかも個々が対峙しているかのような現在とは歴史的現在年としての今であり、人類の歴史の中で見られる反復性は過去を既に起きた未来として捉え、未来をまだ起きぬ過去としての曼荼羅的な輪廻の世界観を示唆しています。私達の、そして子供達の未来を考えるということは在るべき形としての未来を考えるために、原点回帰としての思想を必要としています。私達が私達以前として保有する”場の記憶”は、私達の本来を気付かせてくれるための重要なきっかけなのです。例えば、現代に生きる私達の意識上において生命の根幹とさえいえる立ち位置を獲得したお金。お金はそもそも異なる価値観を持った人間同士の相互軋轢を解消するために考案された共通価値としての媒体物でした。そういった意味でもお金は現金として可視化すれば依然としてただの紙切れと鉱物であり、可視化しなければ実体のない、がしかし強力で強大な価値の媒体物なのです。現代に生きる私達にとって、お金とは生きるうえで最も重要で最もどうでもいい無意味なものなのです。このパラドックスこそが、私達が資本主義経済の中で無意識的に落ち込んでしまう格差の温床となっていることを、私達の意識に留めておかなければならないと考えます。私達は私達のより善き未来のために、労働と努力への正当な評価を求めて生み出されたであろう資本主義経済機構に意識と身体性を組み込み再構築をはかることが重要であると考え、私はArtistとなり作品を通して社会に提言していきたいと望みます。

私の作品は自らにより一貫して全て身体的で鍾乳石に見られるような蓄積を根幹として制作されています。それは自己の信念と意識によって主体的に生み出された現象の蓄積ということができます。これらの蓄積物は自身の総合的な判断により取捨選択され、最も自身の思想に適したかたちとして現れます。具体的には物質の溶融、磨耗、掘削などによる形質変化によって平面や立体などのかたちをとり作品となるのです。
私の作品の制作プロセスは設計図から起こされた平面や立体でもなければ、ただ感情によってのみ生み出される自己表現というかたちもとりません。最低限の取捨選択のみを施した、生命のうちの一つである”私”のただの結果にすぎません。それは全ての因果の結果として表出される現在という時間軸と同等のものであると考えます。宇宙の結果としての地球のように、big bangの結果としての宇宙のように。そもそも宇宙の原初と考えられているbig bang自体がきっと何かしらの結果であるのでしょう。
一つの砂粒が存在するには一つの宇宙が必要なのです。まずはこれまでとこれからに対して性急に二元論的な是非を決定してしまう前に、この愛しい原初を感じ取り在るべき今と未来に思いを巡らせてみたら如何でしょうか。
結局のところ人類が求めるところはシンプルなものだと考えます。それは”自然環境と天然資源の公正な管理”と”利益の公正な再分配”、そして”平和”です。しかし、そもそも原初からこの世界は理不尽な悲しみに満ち溢れています。その理不尽な世界と戦うために人間は宗教を設定し社会をつくり助け合ってきました。人類の未来のために飢餓、病気、貧困、暴力、差別、戦争、自然災害などの問題に本腰を入れて取り組むためには、人類社会はそろそろ一つになるべきではないでしょうか。
方法として異なる文化を無理矢理に侵略、収奪、統合するのではなく、多様性を基盤としてそれらは進められなければなりません。増え続ける人口を養うために耕作地を広げ、豊かさを求め石油を掘り鉱山を掘り固有の生態系を破壊しながら資源と土地を巡る争いを続けているようでは、とうてい上記の”シンプルな望み”はかないません。地球上で自然保護地域の面積が年々減少し続けているなか、民族や人種間の憎悪の根底にはこのように資源と土地の奪い合いがあると考えられます。資源が欲しい一部の貪欲な人達はその奪い合いをコントロールできると信じ、時に焚き付け時に押さえ込み漁夫の利を得ようとした結果、世界中に領土として手の施しようがない”道を誤った国家”を生んでしまいました。そんな理不
尽に晒され続けた地域の人達の敵は”病気”と”貧困”です。しかしそれは理不尽に晒され続けた地域だけの問題ではなく、見渡せば世界中が同じ脆さを抱えていることが分かります。先進国の20世紀の近代化とは、一概には言えないながらも事実として差別と搾取によって得られた”豊かさ”であるということからは、目をそらすことはできないと考えます。
しかし、だからといってなにも領土を解体し豊かさを捨て科学技術やインターネットなどの文明を捨て去ることを推奨しようというのではありません。一人一人ができうる限り、人間としての本来的な在り方を生命的な記憶をたよりに模索し、紋切り型の意識や価値観、既に選択され切り取られ流布された情報に惑わされずに、自身を取り巻く世界について今一度真摯に向き合うことが必要であると私は思うのです。
かつての人間が丁寧な自然観察を通して文明や哲学や宗教や社会を形成し、その中で精神規範や行動規範を培ってきたように、新しい世界を個々で考え抜くこと、自身の生活や国家に捉われず世界の、地球の、宇宙への意識を持つことが、21世紀の初頭に生きる我々の現在的な責任なのではないでしょうか。