私は現代アートとは「イマ・ココ」という現在性が感じられる作品であると理解しています。
故に、作品は同時代に生き共通の文化的背景を持った人間にこそ、最も語りかける力を発揮すると考えています。
無論のこと、共感という普遍的な共通感覚によって異なる背景の人間同士が繋がることができるというのも、アートという文化に備わる力の1つであることは言うまでもありませんが、ここではそれよりむしろ文化、習俗、風土による固有性の方に注目したいと思います。
人類の普遍的な至上命題である「愛と平和と環境保全」を土台とした立脚点から、私は生まれてこの方感じ続けているある種の「生きづらさ」と日を追うごとに深刻さを増す社会の「分断」こそが現代の人間社会を端的に表している事象であるとみています。
「生きづらさ」の多様な原因には社会の「分断」も含まれるため、今回の展示ではそうした「分断」への眼差しを主軸とし、現代に生き日本語で思考する1人のアーティストとして展示構成を行いました。
Covid19パンデミックに始まりワクチンやPCR、マスクやソーシャルディスタンスなどで否が応でも社会に閉塞感や絶望感が漂う中で行われたロシアのウクライナ侵攻、国内では毎年の災害に加え元首相の暗殺など、殺伐とした空気の元でまさに分断と憎しみが蔓延し、社会も人々の心も荒廃の一途を辿るかのように見える昨今ですが、そのような時代において今回の展示ではまさに「分断と対立に対しての一つの構え」を提示したいと考えました。
日本は島国ということもあり、古来から何度も文化的な黒船襲来を経験してきました。その都度、生活様式や文化習俗を柔らかく混ぜ込みながら上手にいなしてきた日本の在り方は、我々日本人の心の持ち様だけにとどまらず国際関係や東アジアにおける日本の振る舞いなどにも通じるものがあると思います。 今回はそうした日本の編集的変化の変遷から【アワセ・カサネ・キソイ・ソロエ】という方法に着目し、自分なりの解釈を加え作品に反映させました。
【アワセ・カサネ・キソイ・ソロエ】とは、長らく日本が行ってきた文化形成における編集的作法です。
詳述すると、まずアワセは二つの相対する文物や表現を左右や東西の仕切りの両側で情報的に比べ合わせることです。そしてアワセの次に競います。これが「きそひ」です。つまりどちらがいいのか勝負は判定をつける。今でも紅白や源平に分かれて協議するやりかたです。こうしてアワセ、キソイを経た後の歌などの表現物を、後でまとめて編集構成するのです。これは「そろへ」です。つまりソロエ(揃え)です。このアワセ・キソイ・ソロエは、この後の日本文化の編集方法としてしょっちゅう使われた方法でした。編集工学研究所を主催する松岡正剛氏はこのアワセ・キソイ・ソロエに、さらにカサネ(重ね)と言う手法を加えて、これを持って日本の情報編集の最重要な方法の1つだと見ています。
とはいえ、かつては高かったはずの日本の編集力も、昨今ではめっきり影を潜めているように感じられますが、社会的分断はもとより、不測の事態や物事への向き合い方そのものがどこかズレてしまっているのかもしれません。
たかが文化の1切れ端だけをもって社会の最適解などという大それた解を出しうるとは到底思ってもみないことですが、今回私が分断をテーマに制作した際のその全ての作法に日本的な対峙の仕方を感じ取ってもらえたらと思います。
そのため、今回一つ一つの作品にはどれがどの意味を持つかという明確な解はあえて与えていません。
想像と解釈をめぐる現代アートの鑑賞方法を、鑑賞者が作品と対峙することで独自の編集的成果を練り上げていってくだされば幸いです。