STATEMENT

 私は現在の資本主義時代において、現代というものを”歴史的現在年”として再認識することで、自らの生活や人間の尊厳的な在り方を再考し編集的思考をもって資本主義との新たな向き合い方を示唆する必要があると考え、存在と記憶・時間と蓄積をテーマ媒体として表現活動をおこなっています。

 第二次世界大戦以降、我々人類は新たな平和を基軸とした世界秩序を渇望し、様々な協定や条約のもとその実現に情熱を傾けてきたはずでした。しかし、更なる経済発展を求めた金融のグローバル化が引き起こしたものは、新たな合法的戦争・侵略・占領・支配というべきもので、全てのものがお金に換金され、たとえそれが領土やかけがえのない文化であったとしても巨大資本を背景とした資本的優位の国に蹂躙もしくは商品化されるという憂慮すべき事態が起きています。

 資本主義はそもそも、質の悪い封建的支配の中で労働や努力といったものに対し正当な評価と対価が得られるようにと、平等と平和を渇望した民衆の叫びであったはずでした。しかし、我々は民主主義も資本主義も戦争も全て一緒くたにして、貨幣経済においての利益のみを求めそれらを逆利用しています。毒と薬は扱う人間次第でどちらにでもなり得ます。我々は果たして自らの作り出した処方箋に対して本来的な扱い方ができているでしょうか。

 本題は破壊により資本主義を打倒するのではなく、初心に還り新たに倫理を組み込んだ資本主義秩序を民主的に考えることにあります。そのためには、再考・編集的思考を持つ必要があり、それには過去や遠い記憶への認識が必要不可欠なのです。
我々は進むばかりが正解ではありません。そして、我々は考えなければなりません。そのために、我々一人一人が過去を踏襲したうえでの現代を再認識し、これからというものに対しての考えを持たなければなりません。

 私の作品は全て身体性から生み出された、時間と現象の蓄積から成り立っています。
 私はそれらの身体性という人間としての目線を意識した蓄積物を通して、身近な物事から宇宙まで、全てに過去という名の記憶が備わっているのだということを再認識してほしいのです。とくに我々日本人には奥深い精神性と感覚的記憶能力が特化しています。それは、歴史というものが長い間記述されることなく語り部を介し物語として存在していたことや、文字が記録のためではなく文字そのものが記憶媒体である表意文字であったことからも明らかです。私はこれらの東洋における精神的思考性がこれからの社会にはとても重要なことだと考えています。

 そして私はかつての侍を想いながら身体性を酷使し、唯々ひたすらに現象を蓄積させ訴え続けているのです。

 いつか砂漠の一神教と合理性、森の多神教と精神性が美しく融合することを夢みながら。