MEMORY CODE 第2章 ー 寄物・漂流・海上の途 ー に向けて

この世界に生まれたということ。
生きるということ。
いまだに答えを見つけられないでいるけれど、向き合いたいから、正面から見つめたいから、私は私を溜めだした。
考える力よりも協調性の中でおこなわれる学力テストの点数で将来の全てが決まってしまうと思われるような恐怖感、圧迫感。生きるということ、自分という存在。ただただ一時の暴力的な発散を別にしてそれらに実感はなく、無闇に華が散るような死に方に憧れた時期もあった。
全ては”私”という問いの答えを知りたかったから。

 

“私”とはなにか。そんなものは何もない。どこにもない。宇宙の現在に三次元存在として在るだけだ。自然発生的な場の派生物に他ならず、同じような草木に自己の顕在化という欲はない。”私”とは、生物の中でも植物に近い存在である。根を張り静寂激烈な切磋琢磨をする三次元存在である。
そう、そして三次元をすら取っ払い多次元の俯瞰的視座で捉えれば、”私”とはもはや存在ですらなく”私”という現象なのだ。

 

わたくしといふ現象は

 

仮定された有機交流電燈の

 

ひとつの青い照明です

 

宮沢賢治は「春と修羅」の序においてこのように物語の始まりを告げている。私の必死さから紡ぎだされたはずの視座でさえ近代の巨人の足元にさえ及ばない。この序の始まりの一節に辿り着くまでに、私は30年近くもかかってしまったのだから。

しかし、いつまでも巨視的な視座の中でたゆたい続けているわけにもいくまい。なぜなら、わたくしといふ現象は三次元存在中の人間であり人間であるが故の社会存在であるからだ。そこにおいての私とは、いまだ未生のARTISTに他ならない。
ARTは世界を記述する、時代を切り取るメディアである。
それだけに、ARTを生み出す個人を包括する時代や環境からの影響を非常に受けやすいものである。
しかしそれはむしろ、生み出すのが一人間であれ個人の感受性を媒体とした環境や時代からの自然発生的な産出である。
ARTが個人の生を懸けた媒体ならば、私とてまた私を包括する世界の媒体なのだ。

私を包括する世界とは、「歴史的現在年としての今」である。21世紀初頭に在る私および私達は如何にして在るべきなのか。その答えを知るために、歴史的現在年としての今を紐解いていかねばならない。
破壊と再生の極点を迎えたのが20世紀だとすれば、21世紀は歴史上においてその都度人類が学び変化してきた破壊と再生のプロセスを平和の土台の上で能動的に行わなければならない。自己の保守性を打倒しより善い在り方を神様に頼らずに実現させなければならないのだ。それは行動規範と精神規範を個人レベルで今一度見直すことを要求する。愚の骨頂たる戦争に向かわないために。

理想の社会とは、どこかのボンクラのために何百万人が死ぬことではなく、くまなく一人一人が明確な社会存在であることを前提とした個の集合体としての社会である。そして個々がそれをきちんと認識している共感状態にあらねばならない。また平和とは確かに理想ではあるが、ひとつの社会的形態・状態であることも忘れてはならない。平和とは動的平衡という可変的な状態に他ならないのだから。
21世紀初頭、私たちは社会を形成する個としての“私”とは何かという問いからの再出発を迫られている。

人間という存在の根幹たる身体性や時間や三次元。その本質は「リズム・速度・長さ」である。常に思考の根幹にこの三原則を据えておかなければならない。
おこがましくも、私は作品を通してこれらのことを叫び続けているのだ。
ARTおよびARTISTを殺すのは貧乏ではない。
世界から無視されること。他者への無関心こそがARTを殺す。
他者からの関心を一切奪われるということは、愛を取り上げられることに等しい。

ISの人質になった人を自己責任の一言で黙殺する社会には、あまりに愛が無いと言わねばならない。誰かが伝えなければ、悪事に苦しむ見ず知らずの我々から成る地球社会の一部が崩壊することになる。地球社会の崩壊とはパワーバランスの崩壊にほかならず、その先には戦争の二文字が控えていることを忘れてはならない。

愛は他者への関心からはじまる。この世で人が学ぶ最も大事なことは、誰かを愛してそしてその人から愛されること。まずはそこから出発しなければならない。
現在の教育には智を扱うためにまず根本たる精神規範、行動規範が軽視されすぎている。心に他者がいない人間は容易に他者を殺せるものだ。太平洋戦争で英断を下した英雄も稚拙で残酷な犯罪者も、常に我々に警告を発している。あなたの中にも私が居る。あなたもまた、この世界を崩壊に導く因子のかけらなのだと。

私は鑑賞行為を解読であると位置づけている。それは表面的に自らの範疇内において趣味的に眺めるのではなく明確な意志を受け取る行為である。作者はその深い鑑賞眼に耐えうる深度と強度を作品に持たせなければならない。作品とは時に言語より雄弁である。その非言語的メッセージの授受はまさに他者への関心が生む愛の生育に他ならない。

私はARTを信じている。Memory Codeに託された暗号は常に誰かに解読されることを待ち望む。
それは歴史的現在年としての今の言葉、古からの永久の言の葉。