MEMORY CODEの骨格

世の中が如何に複雑化し情報が氾濫しようとも、本質とは常に揺るがなく数えられるほどしかない。

例えばそれらは物質の最小単位の法則に隠れている。素粒子や遺伝子やダークマターなんてのもまったくそういった類のもので、だから全体は部分からしか語れないなんて言ったりもする。

僕が想いを託すのは”三次元という制約下でしか感知し得ない世界”と”全てに平等に課せられる消滅または死という概念”だ。
世界に三次元以上の次元が存在していることは物理学において既に証明されているが、たとえそれが何十次元であろうと僕らの脳は三次元下における所産であるためそれ以上の次元を感知するのは不可能だ。

だからといって、この制約は制約として忌むべきものではない。むしろ、愛すべきである。そうすればきっと世界を愛せるであろうから。
僕らの感知しうるこの愛しい三次元には時間の経過と堆積、そして酸化などによる消滅または回帰、つまりは死が在る。
死については大前提として僕らも木々も廃棄物も全てが平等に回帰する循環の入り口である。ステンレスだって錆びるのだし、木は朽ちて土に、鉄は母なるマントルへ。
そこにおいては時間の速度こそが固有性に他ならない。有難いことに帰結として避けがたいものが僕らには用意されているのだ。
だから僕の扱う素材には始点と終点が明確に示されるようなものが好ましい。生み出された瞬間から共に歩んでいけるように。

今辿れる奇跡の連鎖の原初は宇宙という奇跡だ。そこから辿れば太陽系から地球、バクテリア、哺乳類、生物の多様な進化(変化)、ヒトの文明、文化、多様な技術革新、そして戦争。
当初はとても大きく美しかった我々の原初はいつの間にか戦争と平和、個人の幸福にすり替えれられてしまう。
僕らは世界を変えることはおそらく殆ど不可能だと思われるのだけれど、もしもこの地球上からヒトという種族が消滅するとき、隣人を恨むような生き物では在りたくない。そう在ってほしくない。
戦争も暴力も妬みも世界から消すことはできないけれど、死ぬその間際、ひいては日常において原初の宇宙に想いを馳せて奇跡の連鎖に感謝や感動ができたなら、少しは世界が良いものに思えるのではないだろうか。
なにもお金を持っている人や社会的成功を収めた人だけが強烈な自負心のもと幸せな死を享受できるわけではない。僕は本気でそう考えている。

時間とお金の不釣り合いな仕組みの市場はあらゆる格差の源泉だ。それはart marketにおいても同様のことが言える。かつて思い込みと豊富な資金のラグジュアリーでセクシーな投資先としてのartをトイレで否定してみせたデュシャンはそれこそartistだった。絵画を極限まで突き詰めたフォンタナも美しい。
彼らの作品は一様に”生き方”だった。そこからは道元や良寛、一休や明恵上人、西行や芭蕉や…そんな数々の本物の偉人たちを想うこともできる。無論、前述のartにおいて強烈な禅境があるかといえばそうではない。しかし、その主張と向き合い方は方向こそ違えどそこに懸かる個人の圧力や強さは同様のものであると考える。

artはそもそも自由に担保された個人的な行いであるから、それがその個人においてartであるならば他者にあれこれという権利は無いのだ。たてまえとしては。しかしマーケットが形成されart worldとなってくると評価基軸が出来上がり他者の価値観の媒体であるmoneyが絡んでくる。
人様の価値を頂くということはわがままばかりも言ってはおれない。望まれるかたちでありながらあくまで自主的な空気で新しそうなことをいったりやったりしなければならなくなる。価値の媒体物をより多く所有している人達の気に入るように。そうなると、artistはただの製造業になる。artが最強の商品であるといわれる所以である。
そこにおけるモラルの是正は一体誰に可能であるか。会社や社会のモラルは労働者や市民が担っている。話は逸れるが、それを政治家や社長だと思うひとが多いのが日本の現状である。だから主体性のない市民で構成される日本は残念ながらお先真っ暗なのである。話を戻そう。art worldにおける労働者や市民にあたる存在は誰か。無論、製造元であるartistである。artist自身が危機意識を持ってモラルの改善に努めなければ、いつしかパーティールームから夜景を見て格差に目の届かない魑魅魍魎と同じ地平に立つ者となってしまう。いや、既になっている。

かつて道元は言った、学究の徒は貧なるべしと。なにもお金を憎めというのではない。ただ、あんまりにも成功や金持ちなんかという価値観が氾濫しすぎていて、社会がそうはなってもartはそうあってほしくない、あるべきではないと思うのである。こんな生き方があってもいい、むしろそれが救いだと思えるようなもの、インドのサドゥーがそれにあたるか。個人的にはartはそうであって、そうであってほしいものなのだ。

どっかの有名人ではないのだから、こんな大それて自意識過剰や誇大妄想と捉えられるような発言を日本語でするべきではないのだろうが、敢えて記しておきたかった。自戒を込めて。
10年後も20年後もお金に縁はないかもしれないけれど、先人諸師に恥じないような心でいたいと切に願う。