世界の嘆きをふと仰ぐ

今日もいつもの西武線。乗りなれた電車で老人に席を譲ったりしながら池澤夏樹の「ハワイイ紀行」を読んでいた。池澤夏樹の文体は好きで、いつも読み始めからスゥっと入ることができ著者による知識の多様さが自身の勉強にもなる。こうして良いものに触れていれば、目の前に立つ老人に席を譲りたい気持ちにもなるものだし、何より根拠のない余裕を持つことができると私は考えている。
徳というものはリターンを考えずに積まれるものであり、およそ金銭を主体としては実現しづらいものである。この場合、主体が金銭では無償性は難しいというだけで、思いもよらない相互贈与により得られたものに金銭的価値が無いかもしくはつけられないといったものではない。

最近のことで例をとれば、以前から並々ならぬ親切と支援と応援を頂いている表参道の美容室Overland代表 伊佐氏から作品の購入のご要望を頂いた。私は伊佐氏との間柄の中で金銭のやり取りはなるべくしたくないと考えているので、(直裁にいえば、金銭のやり取りなんざクソ面白くもない。そんなもんが曲がりなりにも好きだという人間を私は絶対に心から好きにはなれない。)何かしらの心のこもった対価のやり取りをさせて頂きたいと答えさせてもらった。無論、私は心底貧乏である。お金は喉から手がでるほど欲しいと思う。ARTだけをやっていたい。デートの際、女の子にかっこよく何でも好きなように奢ったりしたいものだ。しかし、それでも私は尊敬する伊佐氏との間柄をお金で汚したいとは思わないのだ。もちろんお金自体には綺麗も汚いも無いだろう。ただの価値の媒体である。故にお金を肯定するのも否定するのも簡単だ。しかし、植民地主義などにおける大国から小国への一方的かつ大規模な文化の廃絶や土地や資源の収奪などをみれば分かりやすいように、お金にまつわる歴史はべっとりと血塗られている。それは間違いなく現在の高層ビルから見る夜景や夜毎狂乱に耽るセレブパーティなどの影に潜む、忌むべき穢れであると私は思うのだ。
そのために、私は伊佐氏との間柄を私の考える健全さとしてこれからも保っていきたいと望んだのだ。そして先日、もう何度目かになるOverland合宿の際にそのお答えを伺わせて頂いた。そのお応えはなんとも懐の大きい破格の申し出であった。なんと私の髪の毛の管理を一生涯無料で保証してくれるというものだった。髪はのびる。切らねばならない。無論、自分自身で切る人間もいれば伸びる毎に男らしくバリカンを入れる者もあるが、特に伊坂氏の持つ美容師としての技術と経験は得難いものであり、やはりそれを体感できるというのは私にとっては一つの素晴らしい体験とリラクゼーションであるということは間違いない。それをなんと無料でおこなって頂けるのだ。一生涯。こんな幸せな、有難い申し出が他にあるだろうか。前述のとおりこれは金銭的に言っても余りあることである。
このように、金に目が眩んだり社会に変えられてしまった人間には値段以上の対価というものは手に入らない。そうしたことを”知る”ということが本来の”学び”なのである。徳は心を保っていなければ決して積むことはできない。心は良きものや善きものに触れれば触れている分だけ清廉潔白に保つことができるのだ。

そうして私にとっての良きものとして池澤夏樹の「ハワイイ紀行」を読んでいたところ、ふと背後から鋭い舌打ちが聞こえる。しかしこれはよくあることなのだが、何故か夕方の電車に乗っている初老の男というものは意味もなく舌打ちをしたりするものなので、それもその類だろうと特に気にもとめなかった。しかし再度鋭い舌打ちが続けて発せられると、さすがに何か険悪なものを感じ音の発生源の方向を振り向いた。瞬間、物凄い憎悪の視線を目の端に捉えた。色白の髪の美しい女子高生だった。しかし、その綺麗な切れ長の目は残念なほど醜い怒りに染まっていた。怒りはその女子高生と背中合わせに立つ高齢の女性に向けられていた。舌打ちをし、睨み、その女子高生は「死ね」と聞こえるように呟きまた舌打ちを老婆にむかって繰り返していた。決して外見からしてそのような激しい行動を頻繁におこなうように見える娘ではないように私には思えたのだが、確かかと言われればジロジロと見たわけではないので断定はできない。大して混み合ってはいない、まだ帰宅ラッシュ前の車中である。何があったにせよ、老婆に舌打ちを繰り返し死ねというほどのことがありうるとも思えない。おまけに降りる時までわざわざ睨みつけながら降りていったのだ。これは尋常ではない憎悪と恨みである。これは”加害者による意図的な被害”が無ければ誘引されない負の感情である。事実確認無しでは立ち入った推測をすることはできないが、いかにも心貧しい現代の日本を見た心持ちであった。たまたま性悪な娘をみただけで現代を論じるなと言われればそれもそうであろう。反論する気は無い。しかし、昨今の心貧しく感じられる殺伐とした出来事の数々と此度の娘の所業はどこか繋がるものがあり、根を同じくしたものではないだろうかと私は思うのだ。

人心の荒廃といえば安っぽいが、昨今ますます著しく若年層での稚拙な理由による殺人や育児放棄が目につくことが多い。それらを引き起こすのは紛れもなく家庭や学校の環境とその内容である。そこには所得、子を取り囲む大人たち、もっぱら両親や教師の人間性、地域の人間がつくりだす雰囲気などが複雑に絡み合っているのだろう。本を読む人間が減ったということもあるだろうし、LINEなど心の機微が脳で自覚されることなく高速に吐き出されるネットワークを原因にあげることもできるだろう。原因を一つ一つをあげていけば、結局は国家や社会の運営に責任があるはずの官僚や政治家に避難が集中するはずである。しかし巧妙に忙しない現代社会では原因の追究すらできないほどに催眠状態ともいえる脳内環境の中で、日々の矛盾や疑問は記憶の箱の奥の方に押しやられてしまう。溜まりに溜まった世界の矛盾は忘れた頃にアルコールなどの助けを借りて融合し、感情の渦となって脳を支配し吐き出される。酔った勢いで性交渉に耽る若者が増え、不倫のスリルに身を任せ家庭を崩壊に導く大人が後を絶たない。不信に心を傷つけられた子供達は身を寄せ合い、他者を傷つけたり見下すことでなんとか自己を保とうとする。忘我の大人は終電ないし夜明けの電車であられもない醜態を面白半分に激写され、日本の暗部と間抜けな平和の一端を世界に晒す。

無限のループは誰にも変えることも救うこともできない。
只々、自身が変えられないように知るべきことを知り学びべきことを学び、個を鍛えるほかはないのだろうと私は思う。

空海が聾瞽指帰を記した時その序文に「ただ憤懣の逸気をそそぐ」とやまぬにやまれぬ気持ちをそこにぶちまけたのは、現代に転がる同じような如何ともしがたい人間の愚かさに絶望しながらも、人間として生きているが故に美しく在りたいと闘っていたからではないだろうか。
2週間前沖縄へリサーチに行った折、お話を聞かせて頂いた辺野古で18年間市民運動の中で戦ってきたきた人はその紆余曲折の中、もはや勝ちや負けではなくただ人間として正しく在ろうと戦っているように、私には見えた。